(自分語りと社会科学)人間則と理論物理学。〜〜〜宇宙科学は、その時代の天動説〜〜〜
2つの記事を一緒にした理由
※人間則とは人間の思考の法則、代表格は論理的思考。
この記事での理論物理学においては、人間則を前提知識にしているため、一緒が都合良い。
理論物理学は、人間則による俗人の限界の例に良い。
似た例と概要
様々な欧米言語を使う人の一部は、それらの言語の一般法則を理解して活用する能力が高いようで、どれか覚えれば単語以外は同じという見解のようだ。
プログラム言語も同様で、大抵の言語のロジックはどれも同じため、応用力が高い人は他に適用できる。
※利用可能命令と単語は違うがググれば解決するため、早々に馴染める。
で、人間即も似たものだ。
人間の論理は共通の頭脳の構造によって行われる方法のため、どれも同じだ。
法律、プログラム、言語、理論物理学、これらの違いは論理構造の組み立て結果や単語のみであり、論理構造を組み立てる法則は同じだ。
つまり、どれも人間則の範囲内だ。
そのため、
人間則を掴めば学問全般において共通法則を適用できると言うことだ。
まぁ、学術に携わる人達は己の領域を独特なものだと妄想しているようだが……人間則の外側から眺めるとどれも同じような代物……それらを覚えることは社会の授業の年数クソ暗記のようなものだ。
人間則の適用度の例
要は、宇宙や自然の法則の影響を避けられないものほど、人間則の適用度は低くなる。
逆も然りで、言語やプログラムはほぼ完全に人間則だ。
人体や宇宙は人間則から外れたものであり、俗人=「人間則の枠の中でしかない生物」が真理に近づくことは不可能だ。
ただし、その現実を突きつけられるかは雲泥の差だ。
人体は手術や治療の際に突きつけられるが、宇宙科学=理論物理学は無縁であり人間則による妄想し放題だ。
心理は人間則の適用度が低い、特に女心。
人間の心理は人間則から外れた面が大きい、まぁ、人間自身が意図的に思考した結果は人間則そのものだが、感情や本能のような無意識的に込み上げてくるものは外れがちだ。
特に女心、女性は感情や本能に沿って言動しやすいため、他の心理よりも遥かにそうなる。
その反面、理論化は程々だ。
まぁ、恋愛攻略論や人事学においては研究が進み、重要なケースの例や対策を上げる位は出来ているが、体系化や根本的概念までは至ってない。
そして、結果、対策や理解は、感覚や経験等のような曖昧な思考によって行われやすい。
その都合上、感覚というものに優れる文系人間の方が女心の把握や対策に優れる。
……逆の言い方をすれば……理系男は女心が苦手とされるが……理系脳とは論理偏重であり、それは人間則偏重でもある……だから女心=人間則の適用度が低い事象が苦手だ。
Many-Much問題と名付けるもの。
両者の違い:
Manyは「数えられるもの」、Much「数えられないもの」。
概要:
人体の構造等はManyというよりはMuchであるし、それどころかManyやMuchの概念に囚われないものだが、俗人はManyでしか理解出来ない。
これを提示した理由は俗人の思考法の限界および人間則の限界において、最も俗人に理解させやすそうなものなこと。
俗人が様々なものを解釈する際、区画や構造物等の「数えられるもの」を定義していき、各々毎に詳細を意味付けていく。
逆に「数えられないもの」で捉えることは出来ない。
俗に論理と言うが、それらはパーツを並べる前提であり、Manyのみである。
しかしながら、この世の真理は、ManyというよりはMuchだ。
人体においても、例えば各区画毎との曖昧な部分はManyで捉えられないし、各区画内には無数や曖昧の構造物が有る。
さらに、無数のものは区画ごとに全く同じではなく、曖昧に変遷していたり、(人間視点で)ランダムな違いが成り立っていたりして、それらの間で曖昧で広範囲に影響し合うためManyで解釈しきれない。
そのような無数さや曖昧さからして、どちらかと言えばMuchである。
さらに、実際にはMuchですらない。
根本的に、ManyやMuchは俗人が作り上げた概念であり、宇宙の法則的には関係無いものであり、宇宙の法則は独自の法則だ。
まぁ、説明しようにも、俗世には説明するための用語も概念も無いため説明困難なため、可能な限りで説明を試みてみる。
それらは各区画単位=Manyでの作用も在り、曖昧な作用=Muchも在り、どちらとも言い難い何かも在る。
それと、各事象への作用は、隣接する事象との直接的な作用だけでなく、間接的なものや、環境のような外部や、それ自体の曖昧な変遷による変化や、各成分や構造自身の(俗人視点で)本来の機能以外の各種作用が絡む。
結局、
人間は自分達が見えているようにしか見えていない。
で、その事の自覚具合や、それに対する謙虚さは学術分野毎に差が凄く激しい。
ということで次の項でその点ことをば。
学術分野毎の人間則との絡みのパターン
3つに分かれる。
◇ほぼ完全に土台から人間則であるもの。
例、プログラムのコード、各国の言語、法律、士業各種等。
人間がゼロから作り、人間則だけで作り上げたものだ、
だから、俗人の理解と「その分野の真理」はほぼ同一だ。
◇人間則の限界を突きつけられるもの。
例えば医学は、治療や手術や原因特定おいて、この世の真理が関わることになり、それとの整合結果を突きつけられることになる。
たとえ人間則で正しいつもりで理論構築しても、誤ってれば患者は死ぬ、そういう現実。
だから己達の限界を素直に認め、真理に対して謙虚だ。
◇人間則の限界を突きつけられないもの
代表格が宇宙科学。※理論物理学も大体同じ意味。
アインシュタインやホーキンズのような俗人どもが、所詮人間則の中で正しいつもりの理論を組み立てて、そんなものは宇宙の真理には程遠いのだが、違いを突きつけられることは無いため、傲慢に妄想し放題。
典型例は天動説を笑うこと。
その時代で把握している知識を以て出た結論が天動説、つまり、その時点で最適解と妄想出来るもの。
そういうのは相対性理論も同じなのだが、それを省みる謙虚さなんぞ程遠く、過去を嘲笑し、あたかも自分達が真理だとほざく。
……まぁ、数世代先に宇宙に関する測定技術が色々増えた際には、一般相対性理論を天動説のように嘲笑し、その時の理論を一般相対性理論のように宇宙の真理とほざくのだろう。
旧世代を嘲笑する者は新世代から嘲笑される。
こういうのは人格の差にも影響が出てくる。
要するに類は友を呼ぶ、その学術の事情の通りの人格の傾向になる。
理論物理学のように自分達が是隊的に正しいと見なし放題で、過去の見下す等卑下し放題で、己達の中で独善し放題、そのような業界にはその通りの連中に好かれる。
逆の言い方と言うか、消去法的な言い方が適するだろう。
医学は、たとえ人間が妄想や独善しようとしても、実務の際に真理との不整合が有れば甚大な賠償や責任を生じるため、妄想や独善をしたい奴は好まない。
で、消去法的に、そういう奴は相応の分野に流れたわけだ。
自分達の中だけで築き上げた妄想を絶対的に正しいと見做し、それで己達を他より崇高と見做せる。そういう人格で類は友を呼んだ。
そもそも一般相対性理論やブラックホールが正しいと見做されるのは、評価する者達が俗人だからだ。
たとえ実際には宇宙の真理と乖離していても、俗人が認識しないなら関係無い。
それよりも俗人が理解出来る程度のものを駆使する方が評価が良くなる。
というか、そういうのも彼らの人格の醜悪さの証拠だが。
謙虚さには程遠いというか、自分達のような俗人がそれなりの困難さで理解出来る程度の事を真実と決め付ける人格、そのような傲慢さや独善さが甚だしく、それが集団極性化しているからこそ一般相対性理論は正しいとされるのだ。
彼らは宇宙に時間が有ると妄想する、光の状況によって時間が動くようだ。
本質的に、宇宙には各事象(※)と運動状況しかない……だがしかし、それの多くは同じ傾向や連携を見做せるため、それを分子や光や熱のような人間則に定義にしているだけだ。
※事象という言い方は「Manyではない」と強調するためだ。
まぁ、時間だけは、それに近い事象が存在している、とある事象がとある運動状況において他との相対位置を一定距離変化させるまでの事象、それを時間と呼ぶのはまぁ間違いでもない。
だが、過去と未来はどこにあるのやら????「時間的なもの」によって各相対位置が動いたら、その時にはその状況しか無い。
しかしながら、人間には以前の状況が記録されるためにそれを過去と呼び、経緯を想定出来るから想定結果を未来と呼ぶ、そのような人間則で妄想する。
それは天動説の時代の科学者と同じではないか。
当時の彼らが駆使出来た道具や理論によって成り立ったものだ、そういうのはブラックホールも一般相対性理論も特殊相対性理論も同じだ。
結局、
宇宙科学とは、その時代における天動説である。
人間の脳の事情と正常さ
ここまでの記述からすると、人間則を把握するのは独特の優秀さが有る印象だろう。
それよりも異常さを注目すべき
。
そもそも人間はManyで解釈するようにできている。
まず第一に脳の構造自体がMany的である。
例えば、
シナプスというManyな存在が記憶を伝播し、伝播も凡そは各シナプス同士という「Manyな処理方法」とか。
そして、脳の各部分の構造は機能が分けられて別々に動くため、それ毎にManyであり、その内部同士で処理する=他の区画同士が曖昧に作用するような「Muchな作用」の割合は低い。
そして「Many的な処理」が主流なために人間はManyで解釈する。
さらに文明の発達や継承が顕著にする。
文明における記録は勿論Manyだけだ。
継承する場合も、読み書きでも口頭でも論理で説明するため、勿論Manyだけだ。
そのため、ただでさえManyでしか考えれない脳の構造なのに、文明の継承の際もManyだけとなれば、尚更だ。
そういうのが正常だ。
逆に、Muchで考えれるのは脳の構造的に何かがおかしい。
さらに、「Many-Muchから外れたもの」で考えれるなら尚更だ。
本来人間の脳は様々な処理において明確にMuchに分けするはずなのに流動的に処理されているわけだ。
人間として何かがおかしい。
副作用と活用不全
理屈上では人間則の把握は壮絶な理解力の向上だ。
だが副作用が2つ有り、それにより結局は活用されにくい、それどころか不幸の元だ。
要は、学術全般が歴史の授業の年数の暗記のようなつまらないものになることと、把握することによって得られる幸福や欲望が乏しくなること。
まず第一に新たな知見を得る意欲が激減する。
そもそも人間が新しい知見を覚えることに楽しく感じるのは、自分が持っている概念に無いものを取り込んでいけるからだ。
そのため、人間則を把握してしまうと、大半の事象は既に把握している概念でしかない。
それらを覚える課程に有るのはひたすら記憶、歴史の授業の年数をひたすら暗記するだけのようなものだ。
しかも、世の中には多数の学術が有ったり、仕事の際には多数の覚える分野が有るわけだが……それら全部が同じものばかり、クソ暗記ばかり。
これでは、壮絶な理解力が有ったところで、意欲が沸きにくい。
さらに、人間則から外れるような人は、覚えることによって得られる幸福や欲望も不全になりやすい。
逆の例を挙げると、欧米言語全般を応用する能力が高い人は、覚える事自体は「ひたすら記憶するだけのつまらないもの」になりやすいが、それで叶う幸福や欲望が有る。
例えば、多言語使いこなす優秀さによる自尊心や承認欲求や高収入や、高収入によって適う欲望各種。
だから、覚える事自体がつまらなくても幸福になれるし、それに欲望が沸くので実際に達成していく。
逆に、人間則を把握するような「人間として何かがおかしい者」にはそのような俗世な幸福や欲望が不全になりやすい。
仮に人間則から外れた覚え方でさまざまな学問を把握したとして、その結果は変人扱いや、それによる畏怖、奇異の目、迫害、疎外等の負の側面を食らう元で、むしろマイナスだ。
それと自尊心や承認欲求だが……生まれつき独特過ぎる人は既に食傷気味であり、それで幸福にもならない。
結果不幸なだけだ。
だか、そういう動機の発生も悲観的。
つまり、覚える事自体の幸福は無いどころかマイナスであるのと、覚えることによって満たせる幸福も乏しい。
だから、理屈上は理解力が壮絶でも、意欲が凄く沸きにくく、結局活かされない。
まぁ、完全に無いわけでもない、何せ、そういう人とて生活のためにより多く稼がなければならないから。
例えば、プログラム言語全般は人間則の外側から見れば同じであり、色々覚えるのはクソ暗記なだけで本当につまらない。
だがしかし、色々な言語を習得してアピールできる程職業事情は良くなる……収入、通勤時間、職場内での状況等。
そのような幸福だけは有るため、その範囲だけは意欲は沸く。
まぁ、逆を言えば、その範囲だけだ。
結局、
才能の活用は幸福の見込に依存する。所有者の基準で。
人間則の外側は理屈上は崇高だが、そこに幸福は無かった。